福原ソープランドの歴史紹介

福原歓楽街の歴史は古く平安時代にまで逆上ります。

平清盛が京を制定した頃に遊郭としての歴史が始まりました。

延々とその歴史は続いていましたが、幕末の動乱の時代に神戸が外国人居留地となった頃に地元有力者達の働きで神戸に歓楽街を置き、後に大阪~神戸間に鉄道か開通したことにより歓楽街は福原に移されました。

そこから長く遊郭として存在していましたが、戦後GHQの指導により遊郭の廃止が決まり、一度は全て廃業し、その代わりに料亭の許可をとった風俗店(現在のちょんの間)が営業を開始し始めました。

全国的にもこれと同じような動きが各風俗街で起こりましたが、1930年~1940年頃まで福原では独自に「浮世風呂」という風呂付きの風俗店が40店舗ほど営業をしていました。

しかしこちらも風営法の許可は無く、1958年の売春禁止法施行により姿を消し、当時関東で流行し始めていた「トルコ風呂」に取って代わりました。

有名な話ですが、当時留学生として日本に在住していたトルコ人学生の間で自分達の国名と伝統文化が蔑まれていると運動が置き、代表者が当時の厚生省に猛抗議し、各地の特殊浴場組合話し合いのもと「ソープランド」と改名されて現在に至ります。

ソープランド業界は旺盛を極めましたが、1980年代の「エイズ」の流行で大打撃を受けることになります。

特にこの時に福原のソープでエイズの感染者が出たとの噂が流れ、全国のソープ街の中でも特に福原は風評以外の当事者となってしまいました。

しかし全国的なソープランド組合のイメージアップ作戦(コンドーム着用義務、コンパニオンの定期性病検診の実施など)が功を奏し、窮地を乗り越えることに成功しました。

風俗業界お歴史としてはあまり語られませんが、その後に起きた「バブルの崩壊」もソープ業界にはかなりの痛手でした。

高級志向を打ち出し高い料金設定であったソープランドは不況の煽りをもろに受ける形となり、当時台頭し始めてきた新型の風俗「ピンクサロン」の流行で、そちらにかなりの客が流出してしまったのです。

その後派生して現れたファッションヘルスでさらに追い打ちをかけられ、風俗の王様と呼ばれたソープランドは「古い時代のもの」となり衰退の道をたどるようになり、閉店するソープ店が後を絶たない状況になります。

しかし各ソープ店の試行錯誤の経営努力で現在は第二期繁栄期となりつつあり、2000年以前と以降のソープランドでは随分とシステムやコンセプトに違いが見られます。

ライバルであったピンサロやヘルス、エステなど他業種風俗での流行を貪欲に取り入れたニュースタイルは離れてしまったソープファンをもう一度取り戻し、また新世代の若者にも受け入れられるようになり始めたのです。

現在福原は「ソープ街」と単純に言えるような形ではなく、様々な風俗店が混在したカオス状態となっていますが「風俗で遊ぶなら福原」と言われるくらいに西日本で名の知れた歓楽街として栄えています。

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